娘が再び動けなくなった日──“当たり前”が崩れた瞬間と、支える側の心

娘が再び入院してしまい、しばらく記事を書くことができませんでした。

退院から約3ヶ月。もう大丈夫だと思っていた矢先、まるで時間が巻き戻るような出来事が起こりました。

ただズボンに足を通そうとした、ほんの数秒のこと。

「バキッ」という音とともに娘はその場で動けなくなり、その瞬間からベッド上での生活が始まりました。

前回の入院では原因が特定できないまま退院となり、不安はずっと胸の奥に残っていましたが、それが現実となってしまったのです。


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体が動かなくなるという“突然の喪失”

今回は前回とは別の場所(同じ腰椎周辺)に新たな問題が見つかりました。

本人は無理をしていたわけではなく、ただ普通に生活していただけ。

それでも体は突然、自分の意志とは関係なく制御を失ってしまいました。

“できていたことができなくなる”

この喪失は、痛みそのものと同じくらい心を揺さぶります。

・自分で起き上がれない

・寝返りが痛くてできない

・トイレに行くにも誰かを呼ばなければならない

どれも、普段は意識すらしないほど当たり前の動き。

それが一瞬で奪われるとき、人は強い恐怖と孤独を感じます。

娘は気丈に笑ってみせますが、その裏に

「また動けなかったらどうしよう」

「原因がわからないまま繰り返したら…」

という不安が渦巻いていることを、私は知っています。


動けない時間に訪れる“心の揺れ”

体の自由を失ったとき、最初に襲ってくるのは喪失感です。

・昨日までできていたことができない

・自分の体が突然、自分のものではなくなる

・痛みがいつ終わるのかわからない

こうした状態が続くと、心は自然と不安へ傾きます。

前回の入院でもそうでしたが、

原因が特定できないという事実は、本人の心に影を落とします。

「また同じことが起きるのでは?」

「この痛みはいつ治るのか?」

「仕事は? 生活は?」

体の痛みより、この“先の見えなさ”が精神を疲弊させることがあります。

でも、娘は自分の不安をあまり表に出しません。

支えてくれる人への気遣いなのか、

それとも、自分自身を保つためなのか。

その強がりが、胸に刺さるように見えることがあります。


周りの人にできること──“全部を解決しようとしないこと”

動けない人にとって、

**「そばにいてくれる人の存在」**は、薬より効くことがあります。

支える側にできることは、実は多くありません。

でも、それでいいのだと思います。

周りができる最も大切な3つのこと

  1. 「怖かったね」「つらいね」と感情を受け止めること アドバイスより、否定しない姿勢の方が心を支えます。
  2. 本人のペースに合わせて寄り添うこと “励まし”は時にプレッシャーになるので、静かに隣に座るだけでいい日もあります。
  3. 未来を一緒に信じること 原因がまだ分からなくても、 「きっと治るよ。一緒に乗り越えていこう」 と言ってくれる人がいるだけで、人は踏ん張れます。

支える側が全部を背負う必要も、何かを完璧にする必要もありません。

痛む心の水面に、そっと手を添えるような寄り添い方で十分なのかもしれません。


“当たり前に動く体”──その奇跡を忘れないために

娘の姿を見ていると、気づかされます。

人は、朝起きて体が動くことを当たり前だと思っている。

歩けること

座れること

自分の力で立ち上がれること

これらは本当は当たり前なんかじゃなくて、

体という精密な仕組みが日々働いてくれているからできること。

そのことに気づける機会は、

悲しいことに、何かが壊れた瞬間に訪れることが多いのかもしれません。

娘がまた歩けるようになる日。

その姿を当たり前と思わず、心から感謝して受け取れるように、

今、そばで寄り添いながら静かに願っています。


今日からできる一歩

もし身近な人が体の自由を失ったとき、

私たちにできる一歩はとても小さなものです。

「大丈夫。あなたはひとりじゃないよ」

その気持ちを言葉にするだけで十分です。

そして、あなた自身の体にも同じ優しさを向けてください。

今日ふつうに歩けたこと、座れたこと、起き上がれたこと。

その一つひとつに、小さな「ありがとう」を。


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