夕方の散歩の途中でした。
両親はいつものように、モコをペットカートに乗せて散歩に出かけていました。歩くことが難しくなっても、外の風を感じてもらいたい。そんな思いで続けていた時間だったようです。
穏やかな時間だったからこそ、その出来事は突然でした。
家に着く直前になって、モコが息をしていないことに気づいたそうです。
驚きと悲しさの中で、父から電話がありました。
「モコが息していないよ!悲しい…」
その言葉を聞いた時、私もすぐには現実として受け止めることができませんでした。
「その後」を大切にする時間
次の日、私も実家へ向かいました。
そこには、冷たくなったモコが静かに横たわっていました。
前日まで介護を続けていた両親は、悲しみに浸る間もなく、モコを見送る準備を始めていました。
棺の代わりになる綺麗な段ボールを探して、お店を回る。
火葬場を見学し、丁寧に対応してくれる場所を探す。
モコを可愛がってくれた子どもや孫たちに連絡する。
たくさんの写真の中から、モコらしい一枚を選ぶ。
写真屋さんへ行き、現像し、焼き増しをする。
お花を用意する。
一つひとつの準備を、丁寧に進めていました。
その姿を見ながら、「見送る」ということは、亡くなった後にも続いていく家族の時間なのだと感じました。
家族を思うということ
介護をしている時、家族は「何をしてあげられるだろう」と考えます。
けれど、それは最期の時も同じなのかもしれません。
どうしたら安心して送り出せるだろう。
どうしたら感謝を伝えられるだろう。
どうしたら、この子らしいお別れになるだろう。
正解はないのだと思います。
豪華なお葬式をすることでもなく、立派な言葉を並べることでもなく、その人らしさを大切にしながら、「ありがとう」を形にしていくことなのかもしれません。
両親は、モコのために本当によく考えていました。
そして、その時間を通して、自分たちの気持ちも少しずつ整理していたように見えました。
最後まで家族だった
火葬の日。
モコを可愛がってくれた家族が集まりました。
みんなで見送り、お骨を拾い、骨壺に納め、再び家へ連れて帰りました。
そこには悲しさもありましたが、「ちゃんと送り出せた」という安堵のようなものも感じました。
介護をしていると、「もっとできたことがあったのではないか」と自分を責めてしまうことがあります。
けれど、両親の姿を見ていて思いました。
家族を思うということは、完璧であることではないのだと。
その時々でできることを考え、迷いながらも向き合い続けること。
そして、最後まで大切に思い続けること。
それだけで十分なのかもしれません。
モコは、たくさんの人に愛されながら旅立ちました。
そして、残された家族にも、「家族を思うとはどういうことか」を静かに教えてくれたような気がしています。
今、家族の介護をしている方の中にも、「これでいいのだろうか」と迷いながら日々を過ごしている方がいるかもしれません。
正解は見つからなくても、その人を大切に思いながら過ごした時間は、きっと残っていくのだと思います。
それは、介護の時間にも、見送る時間にも共通していることなのかもしれません。
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